御旅山古墳の構造と遺物

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御旅山古墳は壺井八幡宮のすぐ西側にあたり、石川に向かって突出した丘陵上に位置し、標高は五一メートル余、前面の水田との比高差は約二一メートルあった。この丘陵が採土工事で破壊中に発見され、一九六七年一〇月から一一月にかけて大阪府教育委員会の緊急調査が行なわれた。墳丘は前方後円墳の外形をもち、本来の規模は全長四四・五メートル、後円部径二六・五メートル、前方部幅一六・五メートル、後円部高は四・五メートル、前方部高は二・五メートルと復原しえたという。前方部は北向きで、長軸線の方向は磁北に対し二五度西に偏している(179)。

179 御旅山古墳墳丘実測図(大阪府教委報告書による)

 後円部の内部主体は古く盗掘されていたが、墳丘の長軸に平行して幅三メートル、長さ六メートル以上の墓壙があり、おそらく墓壙底に粘土で棺床を設け、周囲に礫石をつめた構造と推定され、西北隅から西側くびれ部に向かって礫石をつめた排水溝の存在が確認されたのは、真名井古墳と共通する遺構として興味が深い。この盗掘した部分に凝灰岩製石櫃が再び埋置してあって、銅鏡をはじめとする多数の副葬品を封入し、丸石の上に「義隆元文年是ヲ掘出シ宝暦四年戌二月四日埋ム之」と発掘の顛末を墨書してあった。元文年は一八世紀前半の一七三六年~一七四一年にあたり、宝暦四年はその十数年後の一七五四年である。

 銅鏡は二二面の多数におよび、流雲文縁変形四神鏡一、獣文帯三角縁三神三獣鏡三、唐草文帯三角縁三神三獣鏡一、内行花文鏡一四、珠文鏡一、重圏文鏡一、変形獣文鏡一からなり、後半の一七面は小型鏡に属しているとはいえ、大阪府下で一古墳から発見された鏡数としては最も多く、すべてが仿製品で、内行花文鏡群は三組の同笵品からなると報じられているなど注目すべきものがある(180・181)。この他に鉄剣、鉄斧の破片も出土したが、古くから壺井八幡宮に伝えられてきた二〇本の銅鏃も本古墳からの出土品と推定されるという。

180 御旅山古墳の銅鏡を再埋置した石櫃の状態、上・墨書銘を持つ丸石の出土状況、下・その下の銅鏡群
181 御旅山古墳出土鏡、上・流雲文帯獣形鏡、中・三角縁三神三獣鏡、下・内行花文鏡

 前方部に埋葬施設はなかったが、地山を削り残した上に厚さ〇・八メートルの盛土をしたもので、その下方には平行櫛描文をもつ弥生式土器と、石鏃、石槍、石包丁などを周辺に包含した文化層があって、弥生中期の集落関係遺跡の上に古墳を営んでいることが判明した。また墳丘は上下二段に葺石があり、下段葺石の基底部に壺形土器、上段葺石の基底部と墳頂部とに壺形土器と円筒埴輪の配列が認められた。