この御旅山古墳は市内鍋塚から石川を介して北東二キロの距離にあり、周辺の前期古墳かと推定されるものに北方三〇〇メートル離れた丸山古墳、やや時期が下る可能性もあるが南東に一・五キロ離れて太子町の九流谷の古墳もある。後者の九流谷の古墳は、石川の東岸から二上山に向かって、磯長谷がはいりこんで行く入口の丘陵突端に位置している。地理的関係からみて磯長谷周辺の耕地の開発と古墳の築造の問題で関心がもたれる古墳であるが、市内の板持3号墳の解説で触れたように、墳形が前方後方墳に属している点からも、注目すべき古墳といわねばならない。ただ太子町教育委員会の手で墳形は実測によって確認されたものの、埴輪と葺石の他にどういう内部構造を有しているかの解明は今後に残されている(182)。
それでは市域に存在する前期古墳についてはすでに述べたので、石川の上流域に眼を移してみることにしよう。市域の南側に接する河内長野市は中央の盆地状低地と、それを取り巻く金剛山地、和泉山脈の広い丘陵地帯からなり、石川の上流域と、さらに源流にあたる石見川・天見川・加賀田川の三河川を有する点で富田林市と深い関係にある。大師山古墳はこれらの支河川が合流する三日市町の谷に東方から迫ってきた高い丘陵の尾根上を占めている。