古墳が発見されたのは一九三〇年の偶然の機会からであるが、東西方向に長い木片が地中に埋没していて、多数の遺物が木板上に載った状態で発見された。翌年にかけての大阪府の調査で内行花文鏡、鍬形石、車輪石、石釧、紡錘車など前期古墳の遺物からなり、木板上の東寄りに鏡、西寄りに車輪石、石釧が置かれ、上部を粘土でおおっていたことがほぼ確かめられた。木片の下部に砂を敷き、西辺の粘土には排水用施設の礫石をともなう事実から粘土槨の構造に属する事実も判明した。ただ当時古墳の墳形は直径約一〇メートルの円墳としたのであったが、一九六九年にこの地域が宅地造成で開発されることになって、初めて墳丘実測を行なったところ、形は崩れているものの前方後円墳であることが確認された(『河内長野大師山―大師山古墳・大師山遺跡発掘調査報告』)。これによると全長約五二メートル、後円部径約三〇メートル、前方部幅約二五メートルの規模を有している。しかもこの際の発掘で円筒埴輪が後円部にめぐらされていたことも分かった。
一九六九年の再度の調査で出土した遺物も含めて副葬品の全体を復原した数はつぎのようになる。内行花文鏡一面、管玉八~九個、鍬形石一個、車輪石一五~一六個、石釧一六~一七個、紡錘車四個、鉄剣三振以上、鉄刀子一振、なお内行花文鏡は面径一六・一センチの仿製鏡である。これらの副葬品の品目を通観してみると、石製品の内容がきわめて充実していて、石川谷の最奥部にこれほど豊富な遺物を有したことにまず強い関心を持たないではいられない。墳丘が円墳ではなくて前方後円墳であったことも、規模はそう大きくないとはいえ当然といえるであろう。とくに鍬形石の形状が古くてととのっていることに注目すべきものがある。鍬形石、車輪石、石釧はいずれも貝製の腕輪の原形を碧玉岩など青緑色の石材で模造した製品で、一括して碧玉製腕飾類と呼ぶ人もあるが、もとより一種の宝器であって実用的な使用に供されたものではない(183)。
これほど沢山の石製品が小古墳から出土している現象に対して、かつて斎藤忠氏は最も古式の性格を有する例として挙げられたこともあったが(『日本古墳の研究』「第四章古墳の推移」)、現在の知見からすると再考の余地がある。しかし大師山古墳が多数の石製品を有していたのと、前述の羽曳野市御旅山古墳が大小とりまぜて二二面という、府下でも有数の銅鏡を副葬していた傾向とは、大変興味のある対照をなすものといわなければならない。本市には直接関係のない問題なので、ここではこれ以上検討しないが、石川谷における前期古墳の副葬品におけるこの相違が、たんに古墳の営まれた時期の差にもとづくのか、それぞれの被葬者の好みによるものなのか、それとも大和政権など、より大きな権力組織に結合した際の体制の差といった政治的関係をも反映しているのか、今後改めて取り上げてみたい課題である。