三角縁神獣鏡が現在の日本では最も関心を持たれている鏡式ということを指摘したが、その理由は日本の古代社会が政治的性格を帯びて組織され始めた初期の段階、具体的にいうと三世紀に邪馬台国が成立した過程と関連するのではないかという問題にある。もともと銅鏡は古代中国で長期間流行した化粧道具の一つで(186)、紀元前一二世紀の殷代中期に出現していたことが安陽婦好墓の出土例で知られる。さらに紀元前八世紀から三世紀にかけての春秋・戦国時代に、それぞれの時代的特色を反映した鏡式が成立した。紀元前二世紀の前漢代を迎えると、螭竜(ちりゅう)文・草葉文・星雲文など多様な文様が支配的になり、新の王莽が前漢を倒して建国したわずか一五年間(西暦九年―二三年)を隔てたつぎの後漢代になると、鏡式は一変した。すなわち後漢代には内行花文鏡・方格規矩四神鏡・獣帯鏡などの鏡式が主流となった(187)。