三角縁神獣鏡はこれらの鏡式のいずれにも属さない特異な鏡式で、大正年代には精緻な文様と銘文とをもつ鏡に対して、中国からの輸入品とする立場に立ちながらも、富岡謙蔵氏は三国時代に魏国で鋳造されたと解釈し、高橋健自氏のように前漢・後漢の間の王莽代に属するという主張と対立した。しかし梅原末治氏が富岡謙蔵説のあとをうけて、一九二一年に『佐味田及新山古墳研究』を発表した時点で、問題は大きく展開することになった。これは奈良県北葛城郡の馬見丘陵上に営まれた二基の古墳で、佐味田宝塚古墳の場合、一八八一年に発掘して粘土槨と木棺をもち、周囲に礫石をつめた内部構造で、副葬品の中に三〇面以上の銅鏡を含んでいるという注目すべきものであった。新山古墳も竪穴式石室内に三四面の銅鏡を副葬していた。
梅原氏はこれらの鏡の中に多数の三角縁神獣鏡があることから、古墳もまた中国の魏晋頃に営まれたものとして、『魏志』の中に中国から銅鏡を輸入したとある記事とも関連させて、被葬者はこれと深い関係に立つ有力者であろうと推定した。『魏志』の記事とは「魏志倭人伝」の景初三年(二三九年)倭国遣使のことで、邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝から多数の贈物を受けた中に「銅鏡百枚」が含まれていたことをいう(188)。鏡はこののち正始元年(二四〇年)にも品目に認められるから、当時の倭国は莫大な量の鏡を中国から入手したことになる。三角縁神獣鏡は畿内を中心として分布する事実も指摘されるようになったので、邪馬台国の所在地を畿内大和に求める考古学的根拠は実にこの主張にもとづいていたといってもよい。