小林行雄氏は福岡県糸島郡二丈村銚子塚古墳の出土鏡をめぐって一九五二年に同笵鏡の問題を新しい角度からとらえ、その後、京都府椿井(つばい)大塚山古墳と岡山市湯迫(ゆば)車塚古墳という多数の銅鏡を副葬していた重要な二資料を加えて、三角縁神獣鏡の配布網と初期大和政権の勢力圏との関係を明らかにしようとした。
氏は三角縁神獣鏡を中心とする魏代の同笵鏡は、中国から一組五面の鏡がセットとして輸入され、その鏡が日本国内で配布される過程で一定の秩序にしたがって移動したと考えた。この三角縁神獣鏡を文様から複像式と単像式とに分類して分布を調べると、畿内を中心として東西に分かれる。これはより古い時期の複像式の鏡が配布された段階と、新しい単像式の鏡の配布された段階との差によるものである。複像式の鏡は魏の正始元年に日本に輸入された鏡であり、一方の単像式はそれよりも遅れるものの、いずれも邪馬台国と魏との交渉にもとづくものとみてよい。こうした中国鏡の分布からみて鏡の配布の中心は大和ではなく、山城にあったとみられ、その中心となったのは椿井大塚山古墳(194)である。この理由は大和から瀬戸内海へ出るのに、木津川、淀川を経由する水系を利用したためであろう。あわせて鍬形石、石釧、車輪石などの碧玉製腕飾類も配布されたと想定して、鏡は四世紀前半ごろまでに配布されたので、両者の組合せ状況からすると、最初西日本に、第二次の段階で東日本を中心に行なわれたものと考え、この魏代の中国鏡を配布した最初の段階ですでに大和王権は成立していたと考察した。