高橋健自氏は古く大野延太郎氏の説を踏襲して、この種の形状をもつ石製品の類を銅鏡を表現した模型と考えた(高橋健自『古墳発見石製模造器具の研究』一九一九年)。真名井古墳の場合も、粘土槨の側壁に平滑面を外に向けて貼り付けた状況であったから、埋葬が行なわれた後に主体施設を呪術的に鎮護する目的で、銅鏡を立て並べるのと同様に使われたと解釈するのにふさわしい。ただこれら碧玉製品の大きさは六センチを超えるものがほとんどなく、銅鏡が二〇センチ内外の大きさをもつのに対して、きわめて抽象化した模型である点で、直ちに両者を結びつけることにも問題が残る。
この種遺物を出土した古墳は全国を通じてまだ二〇例程度にすぎないとはいえ、とくに大阪府下では本市の真名井古墳のほか、茨木市紫金山古墳、四條畷市忍岡古墳、柏原市玉手山第5号墳、河内長野市大師山古墳、和泉市黄金塚古墳と最も例数が多い。全国的にみると、西は山口県から東は福島県まで甚だ広い分布を示している。これらの古墳が営まれた時期はまだ銅鏡自体を副葬する習慣が強く守られていたから、この有孔円板形石製品は、銅鏡とは別種の品物を宝器として表現しようとしたのではないかという点を、もう一度検討する必要があることを指摘したい。