現在までの調査によって、市内に分布している古墳で確実に中期に属しているのは川西古墳、新家古墳、彼方丸山古墳の三基しかない。川西古墳はいま全く墳丘の原形をとどめていないが、かつて眉庇付胄と横矧板革綴短甲を出土して中期に属していたことが知られている。新家古墳と彼方丸山古墳は墳丘の周囲に濠をめぐらしていて、新家古墳からは家形埴輪と円筒埴輪、丸山古墳からは蓋形、朝顔形埴輪などを円筒埴輪とともに出土していて、内部構造と副葬品は不明ながら中期とみる上で異論はまずないと考える。
五 河内南部の中期古墳
現在までの調査によって、市内に分布している古墳で確実に中期に属しているのは川西古墳、新家古墳、彼方丸山古墳の三基しかない。川西古墳はいま全く墳丘の原形をとどめていないが、かつて眉庇付胄と横矧板革綴短甲を出土して中期に属していたことが知られている。新家古墳と彼方丸山古墳は墳丘の周囲に濠をめぐらしていて、新家古墳からは家形埴輪と円筒埴輪、丸山古墳からは蓋形、朝顔形埴輪などを円筒埴輪とともに出土していて、内部構造と副葬品は不明ながら中期とみる上で異論はまずないと考える。