地域的関係からすると、川西古墳と新家古墳はともに石川西岸に沿う甲田の河岸段丘上にあって、前者は錦織神社の東南方約六〇〇メートル、後者は同神社の南方約四〇〇メートルに位置し、高さ一〇メートル内外の段丘崖で上下に隔てられているとはいえ、両者間の距離はわずかに三五〇メートルにすぎない。おそらく両古墳は相接近した時期に、甲田から錦織にかけての地域を勢力基盤とした同じ氏族のグループによって営まれたものと解すべきであろう。西方の羽曳野丘陵の突端に廿山古墳などが前期の段階で出現したあとをうけて、この地域に勢力を張った地方豪族の系譜を示す点でまことに都合がよい。これに対して彼方丸山古墳は石川東岸の河岸段丘上を占めて、新家古墳などと石川を介して相対し、彼方、佐備、板持の諸地域を後背地として控えている。いずれも市内のほぼ中央部を東西に二分する地域である(200)。
市内北部の喜志・中野には中期古墳の確実な存在がまだ知られていないので、真名井、鍋塚あるいは美具久留御魂神社境内古墳などの前期古墳を築いた豪族たちが、中期の段階でどのように地域勢力を消長させるに至ったかという問題を明らかにする上からも、古墳の存否を注目したいところである。
さて、市内の中期古墳が数量的にも、規模的にも乏しいのはどうしてであろうか。このためには石川谷を通じて中期古墳の分布の内容を検討し、上・中流域が貧弱であるのとは対照的に、下流域には古市古墳群という、全国的にみても屈指の古墳分布をみる事実と比較しなければならない。周辺の中期古墳としては、市内東板持の東方に隣接した河南町寛弘寺に、従来ツギノキ山古墳群と通称してきた寛弘寺古墳群がある。まずこれを観察しておくことにしよう。