この古墳群は富田林市の市域から東方へわずかに四〇〇メートル離れていて、寛弘寺集落のすぐ西側にあたる丘陵上にある。丘陵は南北に細長く長さ七〇〇メートル、幅は最も広いところでも一五〇メートルで、その北端に近く周囲の低地から一五メートルの高さをもつ台地を利用して、その上に三基の古墳が営まれている。従来はその中の台地西縁にある南北二基の円墳のみを紹介しているが、東北方にもう一基の低い円墳がある(201)。
一九三四年、開墾に際して前者の二古墳のうち、南側の円墳に埴輪円筒がめぐっていることを発見し、日本古文化研究所の調査が行なわれた。その結果、墳丘は直径約三五メートル、高さ四メートル余の規模をもち、斜面は広く葺石でおおわれていたことが判明した。主体部の調査をしなかったので内部構造は不明であるが、墳頂部の中央にはすでに古く盗掘した跡があった。ところが墳頂部周縁と裾部に埴輪円筒列を上、下二重の円形にめぐらし、さらに珍しいことに裾部の外側西方にやや離れて、円筒を別にコの字形に突出して配置した付属の区画が存在した(202)。墳頂部の円筒列に用いられた埴輪は大半が直径二五センチにみたない小型のものであるが、その列に混じって直径四〇センチ内外の大型の円筒をごく少数配置していたという(梅原末治「河内寛弘寺の一古墳」『近畿地方古墳墓の調査一』日本古文化研究所報告一、一九三五年)。コの字形埴輪列について報告書では、帆立貝式の墳形を表現したものかという推測も加えられているが、長さ二メートル余、幅四メートルの小さい区画にすぎないから、実際に封土をもつ帆立貝式墳の概念とはほど遠いものである。