重要なのは、その後このコの字形埴輪配列に近い裾部の円筒列の内側から、船形埴輪が採集されている事実であろう。この埴輪は破片が欠失していて全形を復原することはできないが、おそらく船体の長さは一メートル内外の大きさの細長い模型で、数個の円筒の支脚によって支えられていたらしい(『古代学研究』三「口絵写真」および森浩一「口絵解説」一九五〇年)(203)。挿図に明らかなように舷側に沿って線刻による長方形の区画が連続してあり、内側の各辺に二重の円弧を配置して、一見直弧文に似た装飾を施している。
船形埴輪は宮崎県西都市にある有名な西都原古墳群中の110号墳、いわゆる飯盛塚からの出土例をはじめとして、全国各地からの発見例は一〇例を超えている。西都原例を除いて完形に復原できたよい資料がないので、この寛弘寺出土例も古墳時代の船舶を考えていく上で、埴輪とはいえ興味ある資料の一つといえよう。とくに富田林市に隣接した山間部に近い小円墳から船形埴輪が出土した事実はいろいろの新しい問題を考えさせる。この古墳に埴輪を供給した製作工人が、被葬者の生前の地位や職掌と関係なく、たんに珍稀な器財として船形を選んだと解釈することは困難であろう。すなわち被葬者の生前の経歴の中で、船舶が断ちがたい結びつきを有していたからであるとみられる。海岸から隔たった山間部に古墳が位置している点で、造船技術者とすることも否定されるならば、河川を舟行していた生活の反映とみることもどうであろうか。寛弘寺古墳群のすぐ東側には千早川が流れ、石川に合流して、往昔には豊かな水量をもって舟運の便を与えていた可能性はある。しかし埴輪にあらわされた船の原形はもっと大きくしかもかなり修飾されて部分的に概念化した表現が感じられる点に注目したい。
寛弘寺古墳群出土の船形埴輪の形態を詳細に検討してみると、不明の部分も少なくないとはいえ、たんに石川を上下した吃水の浅い川舟というような小型の刳舟ではなく、二重の棚板からなる高い舷側をもつ相当な規模の構造船で、相当の乗組と積載能力を備えた航洋船の可能性も充分に考えられるのである。この種海上航行ができる耐波性の構造と規模をもつ当時の大型船をモデルにした埴輪は、西都原例をはじめとして二、三の例がある(204)。寛弘寺例は細部の表現では異なっているが、これらの諸例と共通する構造上の特色を有している。生前こうした船舶の運航に関与していたと推測される寛弘寺古墳群の被葬者は、寛弘寺から別井にかけての千早川流域を支配した一地方豪族ではなくて、特別な職掌をもって大きな勢力組織の傘下に属していたと認めるべきであろう。