寛弘寺古墳群の性格

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寛弘寺古墳群の年代はこれらの埴輪のほかに、東北方に位置するもう一基の古墳から採集した鉄器の破片をもとにして推測することができる。遺物は四センチ角の直角に折れ曲がった鉄板の破片にすぎないが、この部分的形状と特徴をもつ鉄器としては、短甲の付属具の中の頸甲の襟にあたる以外に求めることができない。頸甲を備えた短甲が古墳の副葬品として登場するのは中期の段階である。したがってこれら三古墳の内部構造と副葬品は不明とはいえ、すべて中期に属すると考えられるのである(205)。

205 河南町寛弘寺古墳群東北古墳出土の鉄製頸甲破片

 寛弘寺古墳群は富田林市の市域外に位置しているとはいえ、市内の中期古墳を検討する上でまことに重要である。石川谷の上・中流域にはもともと中期古墳の分布は少なく、かつその規模、内容もまた見るべきものはない。しかしこれらは共通した性格をもつ古墳として、河内南部の河岸段丘上や台地上に営まれたのである。前期古墳に認められた勢力分散型の分布に対して、勢力の被規制型ともいいうる小規模、少数の古墳が成立したのはどうしてであろうか。このためには眼を転じて石川の下流域に、全国的に屈指の規模と内容をもつ古市古墳群の出現に触れておかなければならない。