まず空中から撮影した全景写真をもとに説明することにしよう。この写真は古墳群の東半部を中心に約一八〇〇メートルの高度で東北方から俯瞰(ふかん)したもので、近景は藤井寺市、遠景は羽曳野市の市域にあたり、左下隅に石川の下流が見える。中央を横切るのが西名阪道路で、手前に並ぶ二基の前方後円墳の近い側は允恭天皇陵、向こう側は仲津姫皇后陵である。西名阪道路のすぐ上に雄大な姿をみせて斜位置に横たわるのが応神天皇陵、その向こうに墓山古墳、日本武尊陵と続いている。遠景に弧形をなして左上隅に達する外環状線道路の外縁に沿って、左端から小さく清寧天皇陵、峯塚古墳、仁賢天皇陵と並び、上方には羽曳野丘陵の北端がわずかに見える。右上隅に近く、比較的広い周濠をめぐらしているのが仲哀天皇陵で、さらに北方に位置する城山古墳や西方の雄略天皇陵、河内大塚古墳などは右手の範囲外になるので写っていない(206)。
古市古墳群は東西五キロ、南北四キロの範囲で、とくに東半部に高い密度で集中し、前方後円墳二五基、方墳一五基、円墳二六基以上からなっている。応神天皇陵と呼ばれる古墳がこれらの中で最も大きく、全長四一五メートル、後円部の直径二四九メートル、後円部の高さ三六メートル、前方部の幅三〇〇メートル、前方部の高さ三五メートルの規模をもち、二重の周濠をめぐらしている。全長が二〇〇メートルを超える前方後円墳は古市古墳群中に七基もあって、これらの古墳が河内平野に向かって突出した台地上に、次々に出現した有様はさぞかし異様な景観であっただろう。今日我われが望見する陵墓はこんもりとした常緑樹で包まれていて、近代文明社会の波に抗している堅固な岩礁のような自然そのものの姿である。しかし築造当時は、墳丘の表面をおおう厚い葺石が陽光を浴びて河原石のように真白に映え、どんなに遠方からでも指呼できる人工の土木構造物として、強烈な印象を当時の人びとに与えただろうと想像できるからである。それは近年神戸市垂水の五色塚で復原された外形がこの一例として何よりもよく示している(208)。