天皇陵のもつ意味

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さて写真の説明にあたって、古墳のいくつかを「天皇陵」の名で呼んだが、これは宮内庁が主として明治期に治定した陵名にすぎず、個々の古墳の被葬者がはたしてその名前で呼ばれる人物であったかどうかはよくわからない。この問題は平安時代に成立した『延喜式』の「諸陵式」に陵名を記載する以前にすでに生じていたことである。すなわち、『記・紀』の天皇系譜と事績に関する所伝の信憑性にかかわる根本的な問題として、その記事が形作られた個々のいきさつに確実性を欠き、疑問の点が少なくないからである。

 ただ詳細な証明は省略するが、筆者はあらゆる角度からみて、古市古墳群が当時の畿内政権を組織した倭の大王達の墳墓を中心として営まれた重要な古墳群という事実は動かないと考えている。天皇の名は後代につけられた称号であって、当時は大王の称号が名実ともにふさわしい。したがって「宋書倭国伝」に倭の五王として登場する「讃・珍・済・興・武」の諸王のうち、幾人かを被葬者として含む古墳群であるとみる立場に立っている。