ただここで注意しておかねばならないのは、古市古墳群の形成と同じ時期に、南西方に約三キロ離れて、ちょうど古市古墳群と百舌鳥古墳群との中間にあたる南河内郡美原町の黒姫山古墳でも、甲胄をそれぞれ二四個も副葬した例のあることであろう。黒姫山古墳は全長一一四メートル、後円部径六四メートル、前方部幅六五メートルの規模をもつ前方後円墳で、周濠をめぐらし、衝角付胄・眉庇付胄・短甲などの甲胄は、副葬品だけをいれるため、とくに前方部に設けられた竪穴式石室内に収納されていた。古市や百舌鳥古墳群の被葬者たちすべてが倭の大王家の成員であったと考えることはできないが、黒姫山古墳の場合には地域的にやや離れているところに、在地の首長としての性格を推測しうる(213)。
多数の甲胄を副葬した古墳の例は大阪府下だけに限らず、奈良県、京都府、兵庫県下や、遠く離れた福岡県にも例があり、岡山県や群馬県には規模の大きい前方後円墳が築造されている。これらの中には埋葬施設に長持形石棺を使用している場合が少なくないので、葬制を通じてみても相互に深い交渉があったことを示しているとみなければならない。すなわち古墳時代中期の段階は畿内政権の勢力の伸張期であるとともに、これと結びついた畿内と畿外各地の首長たちも、墳丘の築造と豊富な副葬品を通じて権威を表現するという、社会的風潮を反映していたわけである。