ところがこのように展望したのちに、再び石川の中・上流域の中期古墳を評価してみると、前期古墳の場合に比べて質的にも、量的にも顕著な内容をもつ古墳の分布を認めない事実は、何を意味するのであろうか。まずいえることは、この時期における石川の中・上流域には有力な在地豪族が存在しなかったという点であろう。古市古墳群を形成した大王達の本拠としての「宮」がどこに営まれていたにせよ、石川の中・上流域はその隷下に属していた小首長が分散統轄する地域にすぎなかったのである。前期古墳を形成した「村君」の後裔が、つぎの時代にどのような運命をたどって推移したかは明らかではない。前期に廿山古墳を営んだ勢力が中期に至って新家古墳や川西古墳の被葬者につながるとみることはできる。しかし宮町の真名井古墳や鍋塚古墳を営んだ勢力は中期の段階では消滅している。これに関連する時期の集落の分布と規模・内容の調査は、今後に残された重要な課題であろう。たとえば喜志遺跡の弥生文化層の直上から碧玉岩質の管玉が出土し、中野遺跡では上層に土師器・須恵器の包含層が認められ、彼方丸山古墳の周辺に同時期の土師器集落遺跡が存在した形跡があるなど、弥生時代からの農耕集落が引き続き存続した可能性が強い。