後期は日本列島のうち、本州・四国・九州および周辺島嶼のほぼ全域にわたって、多数の古墳が営まれた時期である。前期から中期にかけて盛行した竪穴式石室や粘土槨は消滅し、木棺を直接土中に埋葬する土壙墓が弥生時代より続く普遍的な墓制として、この段階になってさらに広く流行した。しかし後期古墳のメルクマールとなるのは、簡単な土壙墓とは別に、上述した横穴式石室を内部構造とする群集墳の登場であった。横穴式石室の構造は従来の前方後円墳の外形と結びついて中期古墳の段階ではやくも出現しているが、その墓制は日本在来の伝統的葬法と異なり、全く新たに大陸から渡来した系統に属する要素であった。すなわち遺体を納置する墓室として、墳丘の中に広い空間をもつ石築の玄室(げんしつ)を設け、この石室の壁面の開口部に墓道としての羨道(せんどう)を付設した構造に特色がある。羨道は死者が死後の世界に出入する入口でもあるわけで、墓室を死者の霊魂が住む屋室とみたてた黄泉(よみ)の思想は、これまでの日本にはなかった新しい宗教観念に由来している。
列島における横穴式石室のうち最も古い型式のものは九州の西北部から中部にかけて分布し、その一部は瀬戸内海の沿岸に沿って中国地方から近畿地方にまで達している。ついで後期になると爆発的に流行したので、全国を通じてみるとおそらく総数五万基を超える数の横穴式石室が分布していて、日本列島はこの種遺跡の密度に関して、東アジアでも屈指の地域に属し、わずか二〇〇年余りの期間にこれほど多数の古墳が、在地の住民によって営まれた事実にはただ驚くほかない。