この墓制の源流を求めていくと、中国前漢代の崖墓にまで達する。紀元前一一三年に死んだ前漢の中山靖王劉勝(りゅうしょう)は、その妻と並んで河北省満城の西郊にある陵山に二つの大きな崖墓を営んで葬られた。劉勝の墓は石灰岩の岩山を刳りぬいて、全長は五二メートル、幅は最も広いところで三七メートルの広さをもつ十字形平面の墓室からなる。墓室は墓道・南副室・北副室・中室・主室にわかれていて、金・銀器やガラス器、絹織物など一〇〇〇点をこえる沢山の副葬品をおさめていた(215)。崖墓は四川省を中心に流行しているが、西暦紀元前一世紀頃の前漢後期には、中国各地で地上の家宅を模した横穴式の塼室墓を地下に構築する葬制が広まり、死者の生活を墓室中に再現して霊魂を鎮慰する習俗が確立した。後漢代の壁画墳や画像石墓には、死者の生前の経歴、生活情景、地位や身分、神話伝説、歴史上の故事、天文星座など多くの社会的要素を題材として内部を飾る例がみられることも、その思想体系の複雑さを反映している。