ただ日本での横穴式石室の出現はこれらの時期よりもはるかに遅れ、墓室の用材に板石を小口積みにした構造など内容は大いに異なっている。受容の経路も朝鮮半島を経由して日本に伝わったとみるのが通説であるが、まだ詳細な地域的結合関係は明らかではない。朝鮮半島でも南部の百済、新羅の領域に古い横穴式石室の遺例はほとんど見出せないのに対して、北部の高句麗の領域では中頃の都が置かれた中国東北の集安と呼ぶ地域に濃密な分布が認められる(216)。四世紀初頭になって南下した高句麗の勢力圏に入った西海岸の楽浪郡なども、横穴式石室の系譜の上からみると朝鮮半島の西北地帯とあわせて最も注目すべき地域であろう。