金剛・生駒西麓の古墳

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さてここで眼を転じて富田林市を中心とする大阪府下の後期古墳を見ることにしよう。大阪府の東半を占める河内は横穴式石室の分布数でも顕著なものがある。とくに生駒・金剛山地の中で、生駒山・信貴山に始まり河内葛城山に至る西斜面の中腹から山麓地帯には、点々と群集墳が連なっている。各群集墳の数は、小は十数基から大は数百基におよぶグループまで、二五群は下らない。代表的な群集墳としては、北方より東大阪市の石切から瓢箪山にかけての山畑古墳群、八尾市東部の高安千塚、柏原市東部の道明寺山千塚などがある(217)。大和川を越えた南部地域には羽曳野市東部の鉢伏山北斜面に誉田山古墳群、同山の南麓には飛鳥千塚がある。太子町の磯長谷は群集墳ではなく、規模の大きい独立した墳丘をもつ古墳が分布していて、敏達陵、用明陵、推古陵、孝徳陵に治定された前方後円墳あるいは方墳がある。南には河南町に一須賀古墳群があり、富田林市域に属するものとして嶽山古墳群が二三基余りの群集墳を構成している。この嶽山古墳群がこれら群集墳のうち数の多いグループの南限をなすものとみられ、石川谷の上流域ではこの群集墳でほぼ終わる点でも興味が深い。

217 道明寺山千塚中の横穴式石室と家形石棺(ガウランド写真)、石棺は京大文学部博物館に移送

 ところで後期古墳にあたるものは群集墳だけではない。この時期の古墳の中には、一基だけが単独で大きな規模をもって営まれている場合もある。磯長谷の諸天皇陵に治定された古墳もその例であるが、内部構造を明らかに知ることのできる資料がないので、本市に隣接する河南町の金山古墳を取り上げ、内容を説明しておくことにしよう。