金山古墳は河南町芹生谷の広い段丘上の中央に位置していて、石川谷の中で後期古墳として代表的な特徴をもつといってもよい。空中写真で明らかなように二つの円墳が南北に連接していて、双円墳と称してもよい美しい外形をしている。墳丘の規模は南側が大きくて直径四四・八メートル、高さ八・二メートルあり、北側はこれよりもやや小さく直径三〇・九メートル、高さ七・二メートルある。両墳丘を連ねた最も長い長軸の長さは七七・九メートルに達している。この両墳丘を囲んで一二メートル内外の幅をもって周濠があったらしく、現在は埋められて耕地となっているが、飛行機から撮影した写真で見ると、波文状の美しい畦線を墳丘の周囲にめぐらした姿は印象的である。墳丘にはもう埴輪は用いられていないが、表面は小石で葺いていたらしい(218)。
北側の墳丘から横穴式石室が発見されたのは、一九四六年の夏に、たまたま両丘の接するくびれ部に民家が建ち、排水のための側溝が穿たれた結果であった。石室の入口は南向きに開口し、玄室と羨道とに立派な家形石棺がそれぞれひとつずつ安置してあることが確かめられた。石室の内法の全長は約一〇メートルあり、そのうち玄室は長さ三・八メートル、幅二・三メートル、高さ二・八メートル、羨道は長さ六・三メートル、幅一・七メートル、高さ一・九メートルの大きさがあった。これらはすべて花崗岩の野石を積み上げたもので、山から採取した自然石を玄室奥壁は上下二段に、側壁は四段に積み、二個の巨石を天井石として架構していた。羨道の側壁は二段で、天井石には三石を用いていた。石室の床面には河原石を敷きつめている。入口の開口部分がごく狭いので、石室内部は少しはいりこむと真暗となり、周囲の側石と天井石が墳丘にしみこんだ水に濡れて、黒々とした重量感で迫ってくる。次第に眼が暗闇になれてくると羨道におかれた家形石棺が真正面に立ちふさがっているのが見える。玄室の石棺は灯火がないと見えず、その傍に行くためには羨道部の石棺の上を腹這いになって越えなければならない。