後期古墳が群集して出現する現象は、たんに新しい墓制の採用によって生じたものではない。むしろ前期から中期にかけての地域的な社会組織が、各地の豪族による古墳築造の行為として収束されていたのに対し、後期では古墳の被葬者が村落の成員にまで拡大された結果である。その理由は地方村落の共同体的組織が社会の発展につれて崩れ、新たに家父長制家族が形成されて、その新しい身分的秩序として広く古墳を築造したとする解釈がある。一方では六世紀の段階になって大和政権の地方支配の体制がようやく浸透したため、在地豪族との組織的結合が強化され、村落の成員のうち有力な者まで擬制的官人層に組み込む政治体制ができ上ったとする見方がある。彼らが大刀などの武器、各種の馬具などを給付あるいは入手することによって、自らを身分制に位置づけるとともに、古墳の築造を許されたとするのである。
河内地域で最も数の多い群集墳の例は高安千塚で、山畑・服部川・郡川にかけての地域一帯に、かつて五〇〇基を越える横穴式石室の古墳が分布していたという。さきに引用した『河内名所図会』の中にまで登場するほど有名であったのはこのためで、江戸時代にこの群集墳がさかんに盗掘の対象になって荒らされたのである。その結果、現在ではこの群集墳も荒廃してしまって、一五〇基程度が遺存しているにすぎない。また高安山の南端が大和川に達して南斜面を形作る丘陵の尾根上に、二〇〇基をこえる群集墳があった。古く道明寺の寺領に属していたところから道明寺山千塚の名がある。