河南町一須賀古墳群

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大和川を越えた南河内の地域で最も規模の大きい群集墳は河南町の一須賀古墳群である。富田林市域からわずかに一・五キロ離れているにすぎず、市内にはこれに匹敵する規模の群集墳が見出せない点からも、重要なものといえよう。古墳群は一須賀・大ケ塚・寺田の河岸段丘に接した東方にあり、標高二四〇メートルの山頂から西北方に分岐する三条の丘陵支脈上に分布している。その範囲は、南は河南町平石から北は太子町葉室にまでわたっていて、総数は一五〇基をこえるものとみられる。墳丘の規模は一〇メートルないし二〇メートルの直径をもつ円墳が大部分で、一部には方墳もあり、全く墳丘らしいものをもたなかったのではないかと考えられる埋葬施設もある。

 この群集墳の存在は古くから知られていたが、全容が確かめられたのは一九六七年以降、この中心地域に阪南ネオポリスの開発計画が立てられたためである。当初、古墳の石室が破壊される事件もあって、一九六八年から大阪府教育委員会により数次の調査が行なわれた結果、群集墳と第三章で述べた東山弥生遺跡および須恵窯址など各種遺跡の存在を明らかにした。これまで調査された古墳の数は約六〇基に達していて、このうち数例が木棺を直接埋葬しているほかは、すべて大小規模の横穴式石室に属しているという(222・223)。

222 一須賀古墳群の横穴式石室、手前の羨道から天井石を失った玄室が見える  (府教委調査時写真)
223 発掘調査中の石室、玄室奥壁に近い東壁に沢山の土器が副葬されている(府教委調査時写真)