まず最も代表的な1号墳を紹介しておくことにしよう。この1号墳は群集墳の中でも一須賀に一番近い位置にあって、この古墳だけが他とは離れて丘陵中央部の海技約一一五メートルの地点を占めている。墳丘の規模も最も大きく、直径三〇メートル、高さ五メートルの円墳である(『河南町東山弥生集落跡発掘調査概報』大阪府教育委員会一九七〇年)。墳丘の中央に横穴式石室が長軸を北北東から南南西において、地山の一部に墓壙を掘込む状況で営まれていた。石室の平面は両袖式で、玄室の長さ六・五メートル、幅二・一メートル、高さ一・三メートルと、玄室・羨道ともに比較的狭長な形状をなすところに特色がある(224)。玄室と羨道の一部は側壁の下半部が自然石を縦積みにして並べられ、玄室の上半部は四段にわたって小さい自然石を横積みにしている。概報によると調査当時この石室は崩壊していて、両年度にかけて石材を除去しつつ発掘したという。
石室内は盗掘された形跡があったものの、奥壁に密接して石室の長軸に直交する形で一個の組合式家形石棺が置かれていた。石棺は凝灰岩を用い、棺蓋の長さ二・四メートル、幅一・二メートル、棺の全高は一メートルあり、蓋の長辺に各二個、計四個の縄掛突起を有していた。石室内から鉄釘を全く検出しなかったので、玄室には石棺のほか鉄釘を用いた木棺は合葬されていなかったといえるが、副葬品の配列と品目からみると、もう一つ釘を用いない木棺を配置していた可能性はあるようである。奥壁に沿って石棺を配置した例は6号墳にもあるが、15号墳のように石室の長軸に並行して置く場合もあり、一須賀古墳群として特色づけられる葬法ではない。