これに対して市域東南部の諸古墳群は田中古墳群、嶽山古墳群をはじめ、現在では確実な遺例は認めがたいが、西野々古墳群も大半が横穴式石室を構築するグループに属することは、本章第二節の遺跡各説に述べるとおりである。横穴式石室が本格的な構造をもつのに比べて木棺直葬は簡単な構造として、被葬者の地位、財力にもとづく差か、それとも前後の時期差によるものではないかという点は誰もがまず考えることであろう(228)。しかし平1号墳は前方後方墳かとみられる墳丘をもち、須恵器など比較的豊富な副葬品をもつにもかかわらず木棺直葬墳で、後期古墳としても時期がさかのぼる。一方、嶽山古墳群は中に埴輪円筒列をめぐらす3号墳のような古い古墳を含むが、南方の腰神神社に向かう斜面上の群集墳は、横穴式石室とはいえ小型で時期的に新しいものと推定できる。ここで消極的理由として考えられるのは平・宮両地域の古墳群が全く石材を産出しない大阪層群からなる羽曳野丘陵上にあるのに対して、田中・嶽山両古墳群などは、比較的石材の豊富な嶽山丘陵に立地している事実であろう。広範な地域を取り上げてみると、同じ大阪南部でも生駒・金剛山地の西麓地帯に横穴式石室の群集墳が多く、山地から隔たった沖積地の泉北地域では石室墳の分布は目立って稀薄となる。市域のように狭い範囲でも中央に石川が貫流している条件下では、石材の運搬と入手の難易の差が前述のような分布の差を生じた原因とみてよいかもしれない。