市域周辺の後期群集墳

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ただこの場合に考慮しておく必要があるのは群集墳の形成と周辺集落との関係であろう。一須賀古墳群は富田林市の東方に隣接した河南町にある一五〇基あまりの群集墳である。この群集墳が単一集落の構成員だけの墓地であったのか、それとも同族的結合をもつ数集落の共同墓地として形成されたものかは、今後検討しなければならぬ問題と考える。一須賀古墳群が河内南部で最も量的規模の大きい群集墳といえる以上、現在の河南町地域内の一集落だけの占有墓地とは限定しがたく、河南町・太子町そして富田林市内のいくつかの集落によって利用された可能性が強い。その背景としては河内南部を基盤とした豪族が、在地集落の首長層や有力成員との間に形成していた擬制的同族関係の存在があったと推測するわけである。擬制的同族関係とは、実際に血縁的な結びつきがなくとも、勢力関係をもとに、あたかも同族的な組織を構成した古代の社会集団と理解して頂けばよい。同じ時期の集落遺跡と結びつく小群集墳が存在する地域と、複数の集落遺跡がありながらこれと個々に対応する群集墳を近くに指摘できない地域との差を識別することは、地域社会集団の族的結合関係を再構成しようとする研究の出発点であろう。