市域内に分布する集落遺跡については次章で取り上げることにしたいが、たとえばこれらの集落の中で後期古墳の時期に存在したとみられるものは、おおむねその付近に小規模な古墳の分布が認められる。両者を結びつけるような具体的要素を指摘することはまだ難しいが、同時期に属する場合には集落遺跡の地域住民と古墳の被葬者との関係は充分想定できる。ところが市域の東部に位置する北別井・南別井の遺跡と、佐備川流域に沿う広い範囲の集落遺跡と推定するものについては、付近でまだこれに対応する群集墳を指摘することができない。このことはこれらの集落遺跡と最も近い河南町の一須賀古墳群とが結びつく可能性のあることを示唆するものといえよう。河南町と富田林市とはもちろん現在では異なる行政地域に属しているが、六世紀代の地域社会の範囲と構成を検討する際には、こうした現状を超越した、広い視野からする復原的考察が必要なことはいうまでもない。そして一須賀古墳群のように、河内南部で最も規模の大きい群集墳を形成した同族的集団が、どのように消長していったかという歴史的視点からの考察は、これらの総括的な集落分布を地理的環境から比較することによって初めて可能となるであろう(229)。