西野々古墳群は五基、田中古墳群も五基、嶽山古墳群は市教育委員会による分布調査では二三基、大阪府教育委員会の分布台帳では別にもう五基の古墳分布をマークしているので二八基の古墳からなる。古墳分布と集落遺跡との相関関係を具体的に指摘できないものの、石川東岸と嶽山西麓とに限定されたごく狭い河岸段丘を有するに過ぎない地形からしても、きわめて限定された地域圏で、せいぜい対岸の羽曳野丘陵南端との間の河岸段丘を含めた集落立地を想定すれば十分であろう。そしてそれぞれの古墳群は地域的に独立していて、明らかに異なった集団によって営まれたことを推測させる(230)。
たとえば、西野々古墳群は伏見堂の台地の上にあって、五星状にそれぞれ相互に一〇〇メートルないしそれ以上の間隔をおいて点在し、あたかも集落の周辺または付近に計画的に分散、配列することを意図していたのではないかと思わせる。この中で最も大きい明八塚の周濠の一部について、一九七九年に大阪文化財センターが発掘調査したところ、いくつかの興味ある事実が判明した。墳丘の規模は直径約四六メートル、高さ約九メートルで、周囲に幅約六・五メートル、深さ約〇・八メートルの周濠をめぐらしていたという。古墳の内部構造は、かつて横穴式石室状の構造物が開口していたという地元の所伝以上にはわからないが、埴輪円筒と須恵器の破片が出土して、六世紀前半の築造時期と比定することができたのは一つの成果であった。