これに対して田中古墳群は、伏見堂南端の河岸段丘に臨む低平な丘陵支脈の尾根筋上に点々と配置されていて、比較的密集している。墳丘の規模は直径二五メートル内外、高さ約五メートルとあまり大きくないが、開発に先立つ発掘調査で五基ともに横穴式石室の内部構造をもつことが判明した。なかでも第2号墳は石室内に石棺の破片が遺存していて、縄掛突起をもつ家形石棺の存在が確かめられた。石棺の石材には二上山産の白石と称する熔結凝灰岩を用いている。縄掛突起の形状からすると、七世紀初頭と推定することができるが、石室の第一次埋葬のものとみてよいかどうかよくわからない。また第1号墳は、鉄地金銅張の杏葉(ぎょうよう)、十字形辻金具などの馬具と、壺・𤭯(はそう)・高杯および蓋杯の蓋、装飾付器蓋などの須恵器からなる多彩な遺物を出土した。装飾付器蓋とは、遺跡各説の項で述べるように、蓋の上に装飾として小型の壺を取り付けたものであるが、これと類似した資料は一須賀古墳群から、一九六八年度の大阪府教育委員会の調査時に出土している(231)。高杯が長脚一段の透しを持つ型式で六世紀前半に属することにより、第1号墳の年代は六世紀中葉ごろに比定するのが妥当であろう。古墳群中で最も高い位置を占め、かつ内部の横穴式石室が全長九・一五メートルと最も長い第4号墳からは、出土遺物が全く無いため、石室の構造から六世紀代のものと推定できる程度に過ぎない。ただこの古墳群が前記の西野々古墳群とは五〇〇メートルも離れていないにもかかわらず、構成においても、内容においても、両者間に関連性が乏しいのは注目すべきことである。