西野々、田中、嶽山の各古墳群が東西七〇〇メートル、南北一二〇〇メートルのごく狭い地域内に分布しながら、古墳の立地や古墳相互の配列に関して三者三様の特色を有していることは、いま具体的に観察した通りである。これら古墳群の内容にそれぞれ異なった様相が認められるのは、まず別々の集落の成員の墳墓として営まれた結果と考えられ、当初予測したところと一致する。我われがこの事実を前提としてさらに明らかにしたいのは集落の形成過程と、その成員が有していた社会的地位の二つの問題が、古墳の内容に反映しているのではないかという点にほかならない。石川中流域に当たるこの河岸段丘に営まれた集落は、おそらくほとんどが農耕集落であったであろう。しかし田中古墳群のうち第1号墳の副葬品中に、鉄地金銅張の馬具をはじめとして鉄刀などが存在したのは、被葬者が有力な豪族、あるいは中央の権力機構と密接に結びつき、それに相応した社会的地位を与えられていたことを示している。すなわち全国的に生起した後期古墳築造の動向にいち早く反応し、その風潮を受容した社会的基盤がここにもあったと考えられるのである。