『日本書紀』は、この石川の中流域に渡来系の人びとが居住したことを記している。後述するように市内の石川左岸には河内で最もはやく創建されたとみられる新堂廃寺があって、百済系の要素がきわめて強いこともそれを裏づける。ただ、これらの古墳群の内容から土着系か渡来系かを識別することはできない。かりに渡来系の人びとの集団来住によって集落が成立したとしても、世代の経過は急速にその特色を失わせ、石川流域の諸集落として共通した性格と内容をもつに至ったであろう。後期古墳の立地と配列とに顕著な差異はあっても、古墳の内容に関してこれらを区別できるような要素はまだ指摘できない。
ともあれ、横穴式石室の段階になると、古墳の副葬品の中に須恵器と称する容器が数多く含まれるようになる。もちろん須恵器の中に各種の食物を盛り、飲物を容れたためである。市内の古墳でも平1号墳や茶臼山古墳、あるいは田中古墳群中の第1号墳にこの例が認められる。さらに石川上流域に当たる隣接河内長野市の五ノ木古墳でも、横穴式石室をもつ古墳から多数の須恵器を出土した例がある。