縄文土器や弥生式土器の焼成遺構に関してはまだはっきりと確認された例がないのに比べると、須恵器はほぼ全国にわたって広く窯址をのこしている。全国の須恵器窯跡の数について全体の詳細な分布調査は試みられていないが、おそらく三〇〇〇基あるいはそれ以上の遺跡があると推定してよい。注目すべきことは、そのうち約三分の一に近い窯址が大阪府下に分布している。なかでも大阪南部に広がる低平な丘陵地帯、とりわけ堺市の東南を占める旧泉北郡東陶器村、西陶器村を中心とした東西約一五キロ、南北約一〇キロの地域は、全国でも類をみない須恵器窯址群の密集地として知られている。窯址の総数は六〇〇基をこえると推定され、一九六〇年代以降この地域が「泉北ニュータウン」建設用地として大規模な開発の対象となったため、その大半が発掘調査された。この地域の遺跡を「陶邑(すえむら)古窯址群」と総称しているのは『日本書紀』の中で崇神七年の条に「茅渟県(ちぬのあがた)陶邑」という地名が見えていて、おそらく大阪湾岸に沿うこの内陸地帯の中を指すもので、陶すなわち須恵製作の工人集団によって形成された集落を意味したものであろうという推測からである。もちろん陶邑が「崇神紀」に登場するのは『書紀』編述の事情によるもので、年代的に結びつくことではない。『延喜式』神名帳には和泉国大鳥郡に「陶荒田神社」二座があったと記し、これが旧東陶器村大字上之に所在しているのも、彼ら陶工が土器を焼成するための火の神を祭祀したためであろうと考えると、古窯址群との深い関係が理解できよう(239)。