陶邑古窯址群の分布範囲は南河内郡狭山町所在の狭山池を東限としている。地形的にみても、南方から北方の大阪平野に向かって樹枝状に広がる泉北丘陵は狭山池の位置する天野川西岸で終わり、谷を隔てて本市域の羽曳野丘陵と相対する。ただ五軒家窯址は羽曳野丘陵の西縁に位置し、狭山町に隣接しているため、陶邑古窯址群と深い関係をもって成立したと解するのが妥当であろう。採集された土器を見ても、狭山池西方の見野山から陶器山にかけての、いわゆる陶器山地区の窯址から出土した須恵器のグループに含めて検討すべき共通点が多い。
これに対して中佐備窯址は、五軒家からでも東南に五キロ余り隔たった丘陵地帯の中にあり、石川の支流にあたる佐備川をさかのぼった狭い谷に沿う丘陵の尾根の一角に位置していて、水系からいっても泉北とはほとんど関係がない。大阪南部に陶邑という非常に古くからの大規模な生産地帯を控えているにもかかわらず、東南部の山間地帯にこの中佐備窯址のような窯址がわずかながら点々と分布しているのは興味深い。たとえば河南町一須賀にも四基の窯址がある。これら四基は前述した一須賀古墳群の分布地域と接していて、中佐備窯址から東北に約四キロ離れた標高約一〇〇メートルの丘陵上に位置している。1号窯址は丘陵の西端に、2号窯址は古墳群の中にあり、この二基の窯址は大阪府教育委員会の調査によって内容が明らかにされたものであるが、別に2号窯址の北方に窯体をよく保存した二基の窯址があって、この四基を一括して長谷(はぜ)山の窯址と称している。中佐備窯址が近年になって発見されたものであるのに対して、この長谷山の窯址は南河内で最もはやくから注目されたものの一つで、一九一四年に笠井新也氏が「長谷山の古陶窯」として学界に報告している遺跡にあたるらしい(笠井新也「河内国長谷山の古陶窯」『考古学雑誌』六―三、一九一四年)。
戦後しばらくの間、この一須賀東方の丘陵は全面松林で、たまに落葉かきをする人びとと逢う以外に人を見ることもまれであった。古墳の分布する丘陵にはさまれて尾根の一角にぽっかりと口を開けた二つの窯址が並んでいた。南側の一基は、正確には焚口というべき入口から狭いドーム状の内部をうかがうことができ、北側の一基は逆に、煙道の煙出しから入って焼成室の途中まで傾斜した床をおりて行くことができた(240)。いわば窯址の窯体がほとんど完全に保存されている珍しい例であった。本市域の五軒家あるいは中佐備の窯址では窯体が埋没してしまって、ここのような状況を外部からは観察できない。そこでここでは一須賀の窯址や広く調査の行なわれた陶邑の例を参考として須恵器の窯を紹介しておくことにしよう。