窯址はふつう標高一〇〇メートルまでの低いなだらかな丘陵斜面に営まれていて、頂上の平坦部や急傾斜の崖部に設けられることはまずない(241)。分布の状態を地形上からいえば、丘陵にはさまれた狭い谷間を好んで選ぶ傾向があり、その理由は斜面を吹き上げる風を窯の入口で受ける必要があったためではないかと考えられるが、もちろんすべての窯址がこの条件に支配された地形に営まれているわけではない。一基が単独で存在する場合よりも、数基が隣接する例の方が多いのは、窯壁の修理を重ねた後、さらに付近に窯を改築していった結果である。
須恵器を焼成する窯の構造について、考古学の側からは「登窯」の名称を一般に用いてきた。丘陵の傾斜を利用して窯体が斜めのトンネル状に営まれ、床がスロープをなしているためである。ところが窯業家の間でふつう登窯というと、近年の丸窯・古窯・京窯・益子焼などの系統で全国的に見られる連房式の窯で、傾斜地に小さな焼成室を連接し、各室で連続的に器物を焼成する構造を意味している。この点からすると須恵器を焼成する窯の構造は、窖窯(あながま)と称すべき単室の構造に属するといい、近年この見解に従って窖窯の用語を使う考古学研究者も増加しつつある。ただ窖窯というと、中国新石器時代の彩陶などを焼成した直立単室型の簡単な陶窯(とうよう)の形と区別できない場合も生じるので、須恵器焼成のトンネル式の窯に対しては「傾斜単室窯」と表現した方が適当であろうと考える。