六〇〇基をこえる陶邑古窯址群は五世紀から一〇世紀までほぼ六〇〇年もの長い間に営まれた結果形成された。この窯址からの土器は和泉地域を中心とする畿内一帯だけでなく、日本各地に水系を利用した舟運あるいは陸上の経路から供給されたことであろう。
窯址出土の土器型式を五つの時期に大別して、Ⅰ期とは五世紀代~六世紀前半、Ⅱ期とは六世紀前半~七世紀前半、Ⅲ期とは七世紀前半~七世紀後半、Ⅳ期とは七世紀後半~八世紀末、Ⅴ期とは九世紀初頭~一〇世紀と考えられている。近年では一つの窯が長短さまざまの期間使用されたことを考慮して、窯体内の床の堆積でさらに細分し、厳密な時期分類をしようという試みが中村浩氏らによって行なわれている。
古墳に限らず、集落遺跡においても土器は最も普遍的に出土する遺物であって、この型式変化を相対的編年の資料として活用することは有効な手段である。とりわけ陶邑は同一地域内に密集した窯址群をもち、土器型式の経年変化を大量の資料によって確認できる点でも価値は高い。まして陶邑で生産した土器が全国の相当な地域に供給されていた状況を考慮すると、異なった地域の遺跡から同一型式の土器が出土することにもとづいて、両者が年代的に共通する事実を実証することができる。また地域的に異なる窯でも、型式の影響を比較して年代を推定することも可能である。五軒家窯址がⅡ期の六世紀後半であること、これに対して中佐備窯址がやや古くⅠ期の六世紀初頭に属すると考えられることなどは、この編年資料をもとに言えることである。また北甲田集落遺跡の年代を、出土した須恵器の蓋杯、坩などから六世紀後半と推定できるのも同様である(244)。