須恵器工人の伝承

304 ~ 305

さて須恵器の出現は新しい窯業技術の登場によるものであった。『日本書紀』によると垂仁天皇三年の条に、別伝として新羅国の王子天日槍(あめのひぼこ)が来舶して、各地を巡歴したのちついに但馬国に定住したと伝えている。この天日槍の従者がのち近江国に移住して鏡谷で製陶の業を興した元祖となったという。「垂仁紀」の年代についてはもとより、「天日槍」もまた伝説性の強い人物である。したがってその従者として登場するその陶人が須恵器の陶工と結びつく可能性は強いとはいえ、須恵器の起源の説明にはあまり役立たない。むしろ、雄略天皇七年の条に、百済から来日した「手末才伎(たなすえのてひと)」すなわち手工業の技術者の中に「新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりこうくゐ)」という長い名をもつ人物がいたことを伝えるが、これを須恵器の陶工と解する方がふさわしい。しかし「新漢陶部」から推測しうるように、すでに「旧陶部」が居住していたはずであるとすると、日本では、数次におよぶ外来系陶工の渡来が刺激となって、相当以前から須恵器の製作が行なわれていたとしなければならない。