明治期以降日本の考古学が発達していく中で、後期の横穴式石室墳などから多数出土する須恵器は、最もはやく研究者の注目を集めた遺物であった。一九世紀末から二〇世紀初頭の調査報告には、しばしば「祝部土器」と「朝鮮土器」の名称が出てくる。ともに黝黒色すなわち青鼡色をした硬質土器であるが、前者を祭祀の器に供されたものとし、後者を土器の内面に同心円叩目をもつ特徴から、朝鮮半島で伝統的に用いられている土器と同一技法とみて、ことさらに区別しようとするものであった。その後朝鮮半島での調査が進展するにつれて、両者が本質的に同一の系統に属していることが明らかとなった。また日常の什器に祭器を意味する祝部土器の名称を用い、その上に本来「ハフリベ」と読むべきものを誤読しているとの指摘などから、一九五〇年代以降「須恵器」が一般的用語として普及していった。須恵器の源流を朝鮮半島に求めることで異論は耳にしないが、製陶技術伝来の時期と経路に関してまだ問題点は多い。