一九七一年になって、当時ソウルの国立博物館におられた尹武炳(ユンムピョン)氏の教示で、韓国の国立慶州博物館に、これと酷似した小型土器があることを知って裏づけられた(245・246)。博物館の土器は出土地が不明であったが、どうやら洛東江の中・下流域にこの種の土器が分布しているらしいことがわかってきて、問題を解決する緒はようやくつかめたのである。洛東江沿岸のこの地域は、『日本書紀』にしばしば「任那(みまな)」として登場し、北九州に最も近い地理的位置から日本との関係が深かった地域である。現在ではむしろ「伽耶(かや)」という本来の名称で呼ぶべき地域であり、高句麗・百済・新羅などの朝鮮三国のように統一された国家組織はなかったものの、かなり独自の文化的特色を有していたことも、次第に韓国の研究者の調査で判明してきている。
須恵器の源流はこの伽耶からであっても、その後百済・新羅などから相次いで陶工が渡来したために影響を受けたらしく、型式の変化がこれら諸地域の土器との比較によって説明できる場合が少なくない。日本がはじめていわゆる硬質土器の知識を得たのは、陶工の渡来によってではなく、まず日本にもたらされた舶載品からであろうとすると、五世紀中葉の野中古墳から出土したこの種の土器は日本における須恵器製作の上限を考える上で大変参考になる資料といえよう。一九七〇年代は各地の古墳からこの種の土器の出土例が増加した時期で、既出土の硬質土器の再検討と相まって、舶載の硬質土器と初期須恵器との関係がおおいに解明された。土器は古墳の中に副葬されるだけでなく、集落遺跡からもしばしば出土して、須恵器の生産が五世紀中葉ごろ始まったことが一般に認識されるようになった。陶邑古窯址群の出現もほぼこの時期からと考えられる。