本市域における須恵器窯址の発見例数はまだ少ないものの、すでに述べたように五軒家窯址は陶邑古窯址群と関連をもち、後者の拡張の過程でその東端に分布するに至ったものとみられる。中佐備窯址はこれらと地域的に異なっていて、地方豪族との結びつきによって出現したと解釈するのが妥当であろう。河南町一須賀古窯址群の成立も同様で、出土した土器からみて新羅地域の系統を直接受けた可能性が強く、渡来系陶工がこれら地方窯の出現に刺激を与えたと推測できる点でも興味深い。本市域の窯址をめぐる問題も、今後この立場からさらに検討する必要があろう。