三世紀末に始まり、約三〇〇年余りにわたって特色ある墓制を次々にくりひろげた古墳時代も、ようやくエピローグを奏でる七世紀の段階を迎えつつあった。六世紀に全国的に流行した後期の群集墳の築造も次第にすたれて、七世紀の中頃から後半を中心とする前後の約一世紀は、やや様相を異にする古墳が築かれる。大は河内南部の道明寺山千塚や一須賀古墳群、小は市域の嶽山古墳群や田中古墳群を形成した六世紀代の社会集団内部の壮大なエネルギーは衰退して、新しい活動の場へと移っていく。
この段階を古墳の消滅化という一現象でとらえると、終末期古墳の時期と定義することができる。しかし一九八〇年代初頭の現在では、たんに古墳時代の社会の消長を古墳の推移から見るのではなく、より広い視野から評価しようとする立場もある。たとえば時代区分として歴史時代の中に位置づけて飛鳥時代の古墳とする見方である。古墳の消滅はたまたま仏教文化興隆の時期と相重なり、寺院造営の流行を基調とする社会的風潮と関連する点で、新しい時代の一要素としての古墳相をとらえることに意義があろう。ただ飛鳥時代と一口にいっても、その時期区分は人によって様々で、仏教伝来から六四五年の大化改新とする説、五九二年の推古天皇即位から七一〇年の平城遷都までとする説、さらには仏教伝来から平城遷都に至るきわめて長期間をとる説などかなりの差がある。したがってここでは古墳を対象とする立場から、終末期の時期区分を用いておくことにしたい。古墳の変質過程を考える上で、仏教文化の浸透は無視できないが、次章の「歴史考古学からみた富田林」の中で同時期の寺院造営の問題を改めて取り上げることにしよう。