大和の終末期古墳

311 ~ 312

奈良盆地南部といえばすなわち飛鳥の地域で、ほぼ一〇基に達する古墳名をいちいちあげることは省略するが、たとえば有名な高松塚古墳をはじめ牽牛子(けんごし)塚古墳、マルコ山古墳などがある。なかでも注目すべきものは一三世紀前半に盗掘にあった桧隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)は天武天皇と持統天皇の合葬陵で、石室内部の状況を『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』の記録は詳細に描写していて、天皇の陵墓もまた同様な終末期古墳の構造であったことをうかがわせる(249)。とくにこの大内陵には天武天皇を持統二年一一月一一日、すなわち西暦六八八年に埋葬したことを『日本書紀』が記しているので、七世紀の第3四半紀の葬制の基準とすることができる。この内部構造は馬脳(めのう)石と呼ぶ晶質石灰岩の切石を用いた石棺式石室で、前室と奥室というべき連接した二室からなり、両室を朱彩してその境に金銅製扉を取り付けるなど、さすがに豪華で入念な工粧を加えた部分があったことも当然と考えられる。河内の石川谷周辺でこの種の石棺式石室に比較的よく似たものというと、羽曳野市の観音塚古墳と河南町のアカハゲ古墳、塚廻古墳などであるが、詳しい考察はあとで試みることにしよう。

249 阿不幾乃山陵記の冒頭部分、天武・持統天皇の合葬陵で、1235年盗掘にあったのち、石室内の状況が詳細に検証された記録である