終末期の段階で、こうした小規模ながら切石で構築した石室をもつ古墳は、いつ、どのようにして生まれたのであろうか。この問題を解くためには、まず当時の社会的背景を考慮しておく必要がある。古代の畿内地域は、紀、巨勢(こせ)、膳(かしわで)、葛城、大伴、阿倍、平群(へぐり)、坂本、春日などの諸豪族の割拠するところであったが、六世紀中葉以降になると物部・蘇我両氏の台頭が目立ってくる。物部氏は河内平野の弓削と大和東部の石上(いそのかみ)を本拠地として勢力をもち、一方の蘇我氏は時にこれと姻戚関係を結びつつも、崇仏など新しい社会的動向で対立した。蘇我氏は自ら武内宿禰の末葉と称し、満智を祖として大和南部を支配下においた。とくに物部氏が衰亡したのち、蘇我氏一族の中に河内南部を勢力の基盤として、その後永く発展した石川氏をなのる集団があったらしい。一説には蘇我氏はむしろ河内石川を本拠として、ついで大和に発展したとするほどであるから、少なくとも両地域の関係は深かったことが察せられる。たとえば『日本書紀』仁徳紀の条に石川錦織首許呂斯(ころし)の名が見えて蘇我氏との関連を思わせる。また『三代実録』の元慶元年一二月条には、石川朝臣木村が祖先の宗我(蘇我)石川の名を上げて、河内国石川の別業(別荘)に生国をもつことによると述べた記事もある。いうまでもなく蘇我氏は大和飛鳥を本拠としてのち、朝廷の財政、外交の中枢を掌握し、とくに渡来系豪族と積極的に結託して勢力を伸張したことで知られている(250)。