河内石川谷の蘚我氏勢力

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この経緯からすると、六、七世紀にかけての石川谷周辺の古墳は、個々の被葬者名を明らかにすることは困難とはいえ、河内を本貫とする蘇我氏一派と、渡来系の有力豪族の存在をぬきにしては考えられないことになる。もとよりこれらの古墳の中には、渡来系氏族の首長自身の墳墓も含まれていたことであろう。たとえば羽曳野市東部の丘陵周辺はもと「安宿郡」の地に属し、百済系渡来集団の定着安住したところにもとづくといい、これによって飛鳥(あすか)の地名も生じた。また次章に述べるように富田林市南部地域は古く「百済(くだら)郷」の名があり、百済からの渡航者を一時、この石川百済村、石川大伴村、下百済河田(甲田)村に居住させたことが『日本書紀』敏達紀に見える。いわば石川谷は当時まさに大陸との国際色豊かな交流地域であったわけである。

 河内国で最も古くさかのぼる寺院といってもよい新堂廃寺が、本市域の中で七世紀の初頭に創建された事実は、寺址出土の屋瓦が示す百済系の濃厚な要素とあわせて、朝鮮半島の先進文化を受容する機会にも恵まれていたことを示している。したがってお亀石古墳をはじめとする一群の終末期古墳が成立した背景としては、こうした歴史的、社会的環境を抜きにしては解明できない条件があるわけである。それではお亀石古墳の年代は、いつに求められるであろうか。このためにはお亀石古墳のある本市の北東に隣接する太子町の事例をまず見ておかねばならない。