石川谷の支谷にあたる太子町磯長谷には、珍しいことに被葬者と埋葬年代をほぼ明らかにする手がかりを与える貴重な古墳がある。古代の人物像の中で、人びとに最もよく知られた聖徳太子の墓は『延喜式』に「磯長墓」と記し、いま叡福寺の伽藍正面の丘陵腹にある円墳に治定されている。『日本書紀』には「(推古)廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜廐戸豊聡耳皇子命、薨二于斑鳩一。」と明記しているものの、書紀の編者はこの重要な記事を疎漏に扱ったためか、この没年は誤りである。中宮寺の天寿国繍帳銘には推古三〇年(六二二年)二月二二日とあり、法隆寺金堂釈迦三尊像銘もまたこれと同日と刻していて、これら直後の資料を正しいとすべきであろう。沿革は明らかでないが、円墳の正面に御廟寺としての叡福寺が営まれ(251)、平安時代末以来の太子信仰の高揚をうけて、聖徳太子墓の認識は間然する時期がなかったことも、この円墳の被葬者の信憑性を高める理由となる。