重要な事実として、この古墳は一八七九年の大修理により羨道の入口が石で閉塞されるまで、石室の内部に出入することができたといい、明治、大正期の著名な画家で古墳にも関心の深かった富岡鉄斎も内部の状況について見取図を残している。とくに一八七九年、大修理に先立っての石室実検記によると、整斉な切石を用いた横穴式石室で、玄室内に三棺を配置していたとある(梅原末治「聖徳太子磯長の御廟」『日本考古学論攷』)。石室の全長は約一三メートル、このうち玄室は長さ約五・五メートル、幅約三メートル、高さ約三メートル、羨道は長さ約七・三メートル、幅約一・八メートル、高さ約二メートルあったとしている。玄室の両側壁は二段に積んだ切石五個、奥壁は二個で、上に天井石二個を載せる。羨道の両側はそれぞれ切石四個を並べ、その上に天井石三個を載せているといい、横穴式石室の規模として大型とはいいがたいとしても、もっとも最後の段階に営まれた典型的な例とすることができる。玄室内の三棺は、奥壁と両側壁に沿ってコの字状に配置された石造の棺台上にあった(252)。ここには聖徳太子と母后穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女、太子妃膳(かしわで)皇女をそれぞれ夾紵棺(きょうちょかん)におさめて安置したらしく、いずれも棺台側面に格狭間(こうざま)の彫刻が認められたという。夾紵棺とは麻布を漆の接着で数十枚張り重ねて板状の棺体としたものである。