聖徳太子墓は、喜田貞吉氏が「この寺(叡福寺)によりて守られたる太子の御墓も疑問あるべからず」とし、「御壙穴中、中央に母后の御槨を安ずるによるも、この御墳がもと間人皇后のために営まれたりしを知るに足らんか」と考察(喜田貞吉「古墳墓年代の研究」『歴史地理』一九一四年)して以来、梅原末治氏をはじめ多くの研究者は太子の没年と古墳の築造年代を結びつけてきた。ところが一九四四年になって田中重久氏は、磯長墓を本来は母后穴穂部間人皇女埋葬のための造墓であったとして、梅原氏の論考を批判する立場から、むしろ太子の生前に寿蔵として推古二七年(六一九年)ごろに造営されつつあったものとする説を提唱した(田中重久「聖徳太子磯長山本陵の古記」『聖徳太子御聖蹟の研究』)。この根拠として田中氏は『上宮聖徳太子伝補闕記』やそれをうけた『聖徳太子伝暦』の具体的な記述に信憑性を認めている。
しかし『補闕記』といい『伝暦』といい、その骨子は『日本書紀』にしたがって造作を加えて後世に成立したものであることからすると、史実的信頼性は低いといわねばならない。一九七三年になって田中氏はこの論考にさらに付記して、聖徳太子の没年自体を不明とし、叡福寺所在の聖徳太子墓に対しても疑問を呈して、これを太子墓とする記録が一〇世紀をさかのぼらない以上、はたして被葬者を確定できるかという問題に否定的見解をとった(同氏前掲論文『論集終末期古墳』所収)。後世に至るまで最も人口に膾炙した聖徳太子をもってしても、なお墳墓を決定する場合、このように検討の余地を残していることに、我われは改めて墓誌銘をともなわぬ古墳の研究上の難しさを認識しないではいられない。
だが、同時にこのような解釈の不一致の背景が、後世の熱烈な太子信仰に刺激されて、潤色した叙述が試みられた際の相違に胚胎していることを考えると、検討すべき問題はむしろ様々の異説を生んだこれら個々の文献自体に対する史料批判にかかっているといえる。聖徳太子墓に関する具体的史料が一〇世紀をさかのぼらない理由は、それ以前に太子信仰にもとづく記録が述作されなかったか、よしんば書かれたとしても残らなかったかの事情に帰すべきことである。観点をかえていえば、現在の聖徳太子墓を根本的に否定し、別の古墳をそれに代わる有力な候補として立てることのできる積極的な考古学資料は見当たらない。その意味で本市域のお亀石古墳と近距離に位置しているこの太子墓は、終末期古墳の年代基準として重要な価値を少しも失わないことを改めて指摘しておかねばならない(253)。