厳密にいえば、聖徳太子墓の築造は『聖徳太子伝補闕記』に記すように、己卯年(六一九年)にすでに始まっていたのか、太子の没後はるか後になって構築した墳墓に改葬されたのかによって、年代に開きが生じる。いまこの点で、考古学的な見地から、聖徳太子墓を太子の没年より半世紀以上も下るとした尾崎喜左雄氏の説を紹介しておく必要があろう(「大化二年三月甲申の詔を中心とした墓制について」『坂本太郎博士還暦記念日本古代史論集・上巻』)。氏はまず奈良県明日香村の石舞台古墳を蘇我馬子墓と推定して、この古墳の築造を馬子没年の六二六年ごろとする(254)。ところが石舞台古墳は巨大な野石すなわち自然石を架構した大型の横穴式石室であるところから、馬子に先立って六二二年に没した聖徳太子墓の切石積の新しい手法による石室とは、自然石と切石という石材の用法からみて前後矛盾する関係にあり、馬子墓に比べて太子墓を「相当な時の隔たり」をおいて後に、築造したものとしなければならないとしたのである。堅硬な花崗岩石材の加工は古墳の終末期に至ってはじめて可能となったと推測する一方、太子没後にのこされた一族の上宮王家ではたして墓を築造する経済的能力があったかどうかを疑問視した。その結果、太子信仰が改めて成立してくる過程の一時期に、現存の磯長墓が構築されたとして、「ほぼ七世紀後半の中頃、即ち持統天皇治世の頃に置くのが妥当」と主張したのである。つまり尾崎氏は西暦六九〇年前後に聖徳太子墓の成立を考えようとしていることになる。