石舞台古墳は馬子の墓か

319 ~ 319

石舞台古墳を蘇我馬子墓に比定したいという見解は、喜田貞吉氏の考論をはじめとして古くから広く存在し、現在でも暗黙のうちに支持されている。その最も有力な根拠は当時蘇我氏の勢力下にあった飛鳥の地に営まれた最大級の規模をもつ石室であること、さらに所在地を島ノ庄といい、馬子自身が島ノ大臣と通称されていたという所伝に付会したことによる。しかし蘇我氏の繁栄はひとり馬子に始まるのではなく、その父にやはり大臣として国政を掌握した稲目がいたことなどを考慮すると、石舞台古墳を馬子墓と確定するにはまだまだ慎重でなければならない。ましてこれを馬子墓と臆測したことを前提として、聖徳太子墓との先後関係を論じ、太子墓の築造年代を太子の没年より甚しく下げなければならぬ根拠とするのは失当であろう。