今日、聖徳太子墓は簡単な実検記を残すのみで内容を確かめるすべはないが、石室の規模と構造を推定して、復原に有力な根拠となった資料に奈良県明日香村の岩屋山古墳がある。越の台地端に築かれた二段築成の方墳で、一辺の長さ約四〇メートル、高さ約五メートルあり、内部に全長一七メートルに近い壮麗な切石造りの横穴式石室を営んだものである(255)。この種の岩屋山式の特色をもつ横穴式石室は、白石太一郎氏によると奈良盆地南部を中心とし大阪府下の聖徳太子墓を含めて五例あり、それに近い前段階の型式、あるいは亜式、後続型式を含めるとおよそ一三例をあげることができるという(白石太一郎「岩屋山式の横穴式石室について」『ヒストリア』四九)。地域分布の状況から、岩屋山式石室の流行が天皇家をはじめ、中臣・物部(石上)・平群・阿倍氏ら畿内の大豪族層に採用されたらしいことを推論したのはすぐれた論考である。ただこれら石室の多くが実年代を裏づけるのに十分な出土資料を持たず、たんに岩屋山式石室だけを取り上げた場合、やはり年代の基準を聖徳太子墓の成立に求めざるをえないのが実情とみられる。
いまここで本論に戻って、改めて聖徳太子墓と本市域のお亀石古墳とを比較することにしたい。前者が典型式な横穴式石室の型式に属するのに対して、後者がいわゆる石棺式石室として、横口を有する家形石棺を玄室の代わりに据えた型式であることはすでに指摘した。一見異なる構造とはいいながらも、両者の間には石室あるいは羨道部に、方形に調整した巨大な花崗岩切石を用いる要素は共通している。本来の横穴式石室の条件として具備すべき玄室を省略している点で、お亀石古墳は聖徳太子墓に比べて新しい形式といえるであろう。しかし別の場合、両者の前後関係に全く逆の解釈を試みることも可能なのである。すなわちお亀石古墳に縄掛突起を備えた凝灰岩製の家形石棺を配置していた点で(256)、在来の横穴式石室・家形石棺のあり方の一面を強く踏襲しているのに対して、聖徳太子墓は夾紵棺という、これまでの造棺技法の流れには全くなかった新しい要素を、三棺とも取り入れている点からすると、お亀石古墳をむしろ相対的に古く位置づけることも可能だからである。太子墓の細部の内容が不明な現在では、これ以上に厳密な先後関係の比較を試みることはあまり意味がなく、両者は予想以上に近接した年代の築造にかかるものかもしれないことを、指摘するにとどめよう。