さてお亀石古墳は家形石棺の周囲に興味ある遺構をともなっていた。すなわち飛鳥時代末に属するとみられる平瓦を、棺側の羨道に面した南面を除く三方にわたり、コの字形の護壁状に積み上げてあったのである。ここでいう飛鳥時代末とは六四五年の大化改新以前の時期で、六四五年以降七一〇年の平城遷都までを白鳳時代あるいは奈良前期と規定する用法にしたがいたい。もちろん造瓦の技法が六四五年を境として一変したとは考え難いが、一般に七世紀中葉、六五〇年ごろをもって転換期とし、それ以前を造瓦上での飛鳥時代とみるわけである(257)。
石棺周囲の瓦積に関する詳細な状況は後述する遺跡各説の項に譲るが、石棺を埋置する際に構築した施設として、まさに古墳の築造時の遺構にあたる点でも注目に値する。しかもこうした珍しい施設が付加された理由は、古墳の東南方に近接して建立された新堂廃寺と、深い関係を有していたからに他ならない。新堂廃寺は、次章で述べるように、河内地域で最も古く創建された飛鳥時代寺院址の一つであって、おそらく寺院を造立した事情の背景には、渡来系集団とふかい関係をもつこの地の在地豪族を、檀越とした私寺という性格があったとみられる。そしてお亀石古墳は、生前この寺の檀越の地位にあった豪族の墳墓にあたる可能性がきわめて強い。